初期の正しさ→モデルの限界
「モデルの限界」ということについて、考えてみています。
経済や組織や生き方。そういうものにはある種の「これが正しい」と思っている事柄があります。思いこみ、というには、余りに確からしくて、それが「真実」に近いようにさえ思える、そんなことについて、ちょっと考えてみたいと思います。
初期の正しさ
初期の段階で、”最もだ”と皆から指示される傾向や法則的ことがらがみつかります。
初期段階は、大抵は、分かりやすい何か(量X)が増えれば増えるほど、成功していると感じる度合い(量Y)が増える。そういうシンプルな社会になっています。これはなぜなのかは、分かりません。そういうことが多いな、といういわば、それが成り立つ上での議論に限定する、ということで話を進めてみます。
たとえば、組織の立ち上がり期にはXは「効率的分担の進行度」でありYは「生み出す価値」でありそうです。
たとえば、経済の立ち上がり期にはXは「可処分所得」でありYは「幸せ」でありそうです。
モデルの限界
ところが、初期の段階ではほぼ反例のあげられないそうした「確からしさ」をXが非常に増えた領域でも「正しいと仮定したままにする」ことが、多くの問題を引き起こします。
もっとも、身近なのは、人生の問題で「可処分所得」が増えれば増えただけ人は幸せか?といえば、「はい、100%そうです」とはいえなくなります。所得を増やす方法がいろいろありますが、単純に労働量の増加で所得増をゆくような路線の場合、高い確率で健康上の大きな代償を得るか、家庭という一番小さな社会を故障にみちびくことが起こります。もちろん、お金なんてたくさんあると不幸になる、という議論とは全く違います。
組織でも、同様です。
「効率的分担の進行度」の大きくなった組織ほど「生み出す価値」が増大するか、といえば、組織としての老化~死に近づくような道も生まれてしまい、行きすぎた効率性の結果、創出する価値が変質してしまう、ということも往々にあります。経営学の世界ではミンツバーグの「人間感覚のマネージメント」で言っています。
初期の正しさは、一定量を超えたらば、モデルの限界を考えなければなりません。難しいのは、初期段階で植えつけられた「この法則は正しいのである、ただの一つの反例もなく」という心理が判断を誤らせています。
経済、資本主義という経済モデルについての私見
資本主義の経済というものがどこまで行くのか。経済の貨幣流通の速度が人間の手の上で、人間の判断の速度で、動いていたうちは、この資本主義の経済原則で、社会はまわせばまわすほど、よいというモデルだったかもしれません。しかし、今日のように金融工学が発達して、可能性上の選択肢を実際に実行できる取引インフラや計算速度、膨大な取引実施を可能にできるコンピュータシステムが、できた状況では、このモデルを極端な取引についても「正しい」とおもい実施する結果、経済的な「おかしいな、やっぱり、でも、どうしてだろう」という社会的総意に至るのかもしれません。
モデルというのは、ある物事の本質を単純に切り出してきて、少ない登場物で、その場の現象を説明する・未来を予測できることに価値があります。しかしそのモデルは、やっぱりモデルであり、そのモデルを描き出した物理量をはるかに超える量な物理量の段階でも、そのモデルを適用すると奇妙な回答を引き起こしてしまします。
現在の経済が、「無限の資源」「無限の廃棄スペース」「早くて細かい経済的判断は、どのレベルでも消費者が可能」といった、近似的に正しいとみなされるものごとが、もう正しくないレベルに社会が到達していること、それが、どうも問題ではないか、と思います。
このエントリーで表現したかったこと
経済や組織について、というよりは、一般の物事について、こうかんがえています、ということを言いたかったのです。つまり
「初期の正しさ、を無限に外挿して、正しいと適用してはならない。モデルには限界があり、大きな量で検討する時のモデルは、また別であるはずだ。」
ということです。
理論物理学で修士まで量子力学について研究したモノとしては、あらゆるものとに古典物理学的な確定的な軌道演算が可能であるという考えには必ず限界があり、量子揺らぎ、があるかぎり、不確定性はあるし、古典的な物理的なモデルは所詮ある種の領域での確からしさにすぎない、という客観視をしています。あるいは人間という存在か価値を決めるわけで、経済については人間のようなゆれる尺度を基準に回る世界においては、非常に移ろいやすい土台の上にたてられている営み、それも巨大な営み、と思っています。
京都である業界のリーダさんと会食した時に「石井さんはとても慎重で、話しの論理展開に可能性と選択を明示的に指摘しますね」といわれたことがあります。なんだか懐疑的な人っぽいなぁとすこし気おくれしたのですが、たぶん、そういう「初期の正しさは、必ずモデルの限界領域があり、それはどこまでなのかを見定めようとする意識」がそうさせているのだろうと思います。