最後まで努力できるのは、愛と小心の効果
”このへんでいいだろう、とおもって提供する仕事は、満足ができない。正しく言うと、本人の気持ちが満足できない。顧客満足度が合格点だったとしても。”
そんなことを、いつも、何か作品を作ったり、講演を実施するたびに思います。自分の仕事が「これでいい」といえば、かなり初期段階でも言えてしまうと思うのですが「もっと分かりやすく、もっと楽しく」とおもえば、努力の余地は尽きないわけで。
人に、最後まで努力をさせるのは、顧客への愛情と、自身の小心さ、であろうか、とも、おもうのです。
1時間という時間の中で、1つでも多く、相手の残るものを、1つでも多く、役に立つものを、とどけたい。そう強く願う気持ち。それは、顧客というか聴講者を我が子だと思って圧倒的に愛する気持ちからきます。
まだ見ぬ人々を、そうおもって愛する。それはとても想像力のいることですが、製品をあまねく届けたい全ての人に必要なこと(あるいは望ましいこと)なのかもしれない、とおもいます。
パナソニックでいえば、松下幸之助、日立でいえば小平氏、三菱グループでいえば岩崎氏が受けつぐ組織の創設者である坂本竜馬。彼ら自分の組織や工場を通して未来に、人に、そういったものをみていたのではないか、と思うのです。
それから、「自身の小心」。これは、最初「相手への敬意」ときれいに表現しようとしたのですが、やはりなまなましく「ネガティブな言葉」で書こうと思います。
小心は、いわゆる小心者、という意味でここでは使います。(ですが使うに当たって辞書を調べると、いい意味もあるんですね。ホウタンショウシン)
知識を届ける相手の意識が高い、とおもうと、張りぼてではみぬかれる。論拠は正しくあらねばならない。アカデミア的な研究データの薄い領域を説明する際には、「傾向」「特性」といった「蓋然的」なものごとを、論述上、謙虚な姿勢で説明をしなければならない(分かりやすさとトレードオフですが、「○○はうまくいく確率が高い。しかし絶対ではない」「○○というケースが多くみられる」という表現でするべきだと思うのです)
小心であることは、時に、過剰説明、専門用語の大量投入をもたらします。しかしこれには、歯を食いしばって耐えなければなりません。専門用語をぱちぱちぱちっと組み合わせて、表現したことが、平易な言葉1文でせつめいできるなら、後者を選ばないいけないと思うのです。説明を平易な言葉でいい変えてもらったら、意外とわずかなことしか言っていない、という専門家が時おりいます。(そして、私もいつも自戒しなきゃ、とおもいますが)そういうのは、その場でその人はいい気分だけれど、具体的な一歩を生まない。できるだけ、平易な言葉で表現をしていく。3つ以内の論理ステップで説明する。これは、「相手への愛」がうまく働くことで、おりあいがつきます。
小心なだけの精神状態で作った文章は、ものの見事に、響かない。時間をかけて情報量がたくさん入っていることは確かであり、文献的価値があるのは否定しないけれど、やはり記憶には残らない。
愛と小心の両方がもたらす効果、それが「最後まで努力できる力」あるいは資質、というものかなとおもうのです。
私が行う講演は、ブレストかTRIZか、だいたいアイデア発想の活動に関するもので、同じものを離してしまえば、年間の準備総時間なんて、わずかにできてしまうのかもしれませんが、相変わらず、講演依頼のたびに、執筆依頼のたびに、10~50時間ぐらいの準備時間をかけます。1時間のために1週間近くを費やすということもあります。
「顧客への圧倒的な愛があり、それが製品のフォルムに宿るような仕事をする」
そういう日々を積み重ねて進むのみ、と、毎朝、起きるたびに、思います。
家族にとっては、えらい迷惑な父親かもしれませんが。