要素と構造考
ある物事を、モデル化する、という行為は、要素と構造をはっきりさせる、ということとほぼ同義。だと私は考えています。
社会現象なり、2人の間で行われている対応なり、小さい世界の物理現象なり、それらを、モデル化するとは、
1)まず、観察される全てのことから、構造をはぎとります。観察時間スケールでは余り変化をしないもの、を「要素」として拾い出す。
2)次に要素同士の関係性がうまく現実を再現するように、もっともシンプルな構造(いいかえれば、要素間の関係性)を仮組みする。それが現実の多くを再現していれば、採用。
要素と構造のシンプルさが高いものは再現性が低くなるけれども、シンプルであることときめ細かい再現性はトレードオフ的な関係なので、その辺は、おりあいをつける。とてもシンプルだけど、大部分を再現できる、というところが、モデルとしていいころあい。
さて、言いたかったことは、まずモデル化とは、複雑怪奇な現象から、構造を剥ぎ取り、要素をみつけ、それらのシンプル構造を再構築してやることで、現実を代弁するモデルをつくる、ということだ、ということです。
次に、知であそぶ、というゲームを作る場合は、ステップ2を工夫します。
まず対象となる物事から、構造を剥ぎ取り、要素を抽出したら、次に、そこにゲームの構造を付与します。すると、それは「知であそぶ」おもちゃになります。
構造がさいげんされていないじゃないか、という声も当然出ます。これは、ゲームの構造とうまく融合できると秀逸な「知の遊び」にしあがります。一般には、モデル本来の構造とゲームの構造が衝突しあって、えらく複雑なゲームを創ってしまいます。なのでそれであれば、いっそのこと、社会の持っている構造は剥ぎ取ります。それらを、「高次要素」というものにおきなおしてしまって、ゲームの中に付与する、というのも方向としてはありです。ただし理解上、混乱をまねくこともありがち。
この方法、たとえば例で言いますと「上司と部下のコミュニケーション」という活動を対象にゲームができたりします。この活動をよーく観察し、その中で、対象記述時間ないでは余り変わることの無いものを「要素」として切り出します。多分、粒度がバラバラで重要度もバラバラですが、とにかく、切り出します。その上で、粒度などをととのえて、重要なものにしぼります。一つの目安は50ですがもっと多くても少なくても、いけはします。
その上でそれらの要素を、ゲームのような構造をくんで、楽しむことにします。
「上司の指示が良く理解できない」「知識の少ない物事には質問を発しにくい」という要素が仮にあったとして、これらを何らかのゲーム構造で戦うなり、取引するなり、して、遊びます。一連のカードセットをそろえると「聞きそびれ仕事ためこみコンボ」とかを形成して、ストレートフラッシュ!とか、そういう形にしてあそびます。(これは、幾分、構造に、本来の構造をうっすらつかっている感じです)
要素と構造。
知を遊ぶ。
これらは、多くの可能性と作品の余地を持っています。
夕飯の献立を考えて悩ましい主婦の方をよく観察することで
要素と構造をみいだせば、「献立の悩み」バトルカードゲーム!とかも
理屈としては可能です。
たぶん要素は「冷蔵庫の中にあるものを思い出す」
「残り時間でできるものを考える」
「明日のお弁当につかえる日持ちのよいものを考える」
「機能の献立とかぶるものを消しこむ」
といったカードでしょう。
これを、どうバトルするか、献立悩みならではのなにかを
つくれるとかなりニッチにうけるものにもなるでしょう。