道。その本質は型から自由への回帰。
【道】みち、あるいは、どう。
武道、茶道、なになに道、いろいろありますが、その道の最も基本にあるのは
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自由 → 型 → 自由に跳ぶ
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であるようです。
道に入る前、各自の気ままにやっていた「自由なやり方」を、
入門したら、一度封じ、その道で習う「型」を修得していき、
そしてその道を修めたら、「自由に跳ぶ」。
単に飛び上がって高く飛べる人ならば、道に入り、型を修得する必要はありませんが、そうでない人は、学んだ型を踏み台にして、はじめよりもずっとたかく飛び上がることができるようになる。それが、道を修めること、であると私は思います。
なので、道というのは「我流をやめて型どおり」にできること、が本質ではなく、「型を踏み台にして、自由に跳ぶ」ことが本質である、とおもいます。
何かを学ぶときには謙虚な姿勢でその手法の真髄を耳を済ませてよく感じ取り、それを十分に知り体験し説明ができるようになれば、型どおり、に、こだわらず、それを糧にさらに新しい高みへ進めばいいのだ、と無意識に思っています。これは、シュハリ、でもあり、あるいみ、「優れた人材がいる時代ほど、分家、分派ができる」ことと深く関係しているようにもおもいます。
「このノウハウを、利用してやろう」という意識を持っている人であればこそ、耳を済ませて、心はしんとしずかに、謙虚に学び、修めたら次へあがるわけで、学びの達人たちに共通する傾向でもあるとおもいます。
道に入ったばかりで「これは自分のスタイルじゃない」「この考え方には納得できない部分がある」というのに抵抗してなかなか先に進まない人の方は、あるいみ純粋なのであるし、求道者としての資質があるのかもしれません。独自の「道」を創る人なのかもしれません。ただ「このノウハウを、利用してやろう」という野心をもって門をたたいたのであれば、その姿勢は、「道」を修めるまでの期間を長くすることになるでしょう。修めるに足る道を選定したならば、次は、「型からの自由への回帰」を早く実現するために、虚心坦懐にその道で型を修める。それがもっとも力強い学び方、でしょう。
最近、各種の専門家の方にお会いしてお話を聞くにつれ「道」というものをあたかも実体を持ったものかのように感じることがありまして、そのビジュアライズされてきた概念の上で、彼らが演じる役割に、ふと、こんなことを思ったのでした。