経験則は間違うと言い切ることの間違い。
アカデミアの立場を長くとっていた身としては「それは科学的に説明できるのか」という批判へのチェックがいつも頭のなかにあり、きになります。なかなか歯切れのわるい表現になったりするのは、その働きが強すぎるときなのですが。
ただ、ある文献を読んでいて、否定の仕方がちょっと巧妙にデザインされた表現で、威力を持ちすぎているケースがあると思いました。
というのは「およそ組織の育成は経験則で話を進めて、自分の成功体験で導いた方法でやってしまうが、それは恐ろしいことだ」という主旨の文章をみたことがきっかけです。
そう。たしかに「俺のやり方論」で万事にうまくいくかのような話を展開されては困ります。それはたまたまうまく言っただけで、他の人でもなりたつの?明らかに今の状況ではマッチしなくないですか?ということもあります。
ただ、ですね、そういう「経験的に正しいと感じ取ったこと」の全てが、取るに足らないものであるかといえば、そうじゃないと思うのです。
多分、聡明な洞察力を持ったリーダの見出してきた心理特性や人々のおりなす特徴的パターンは、確かに少ない事例からかもしれないけれども、けっこうな心理を言い当てている場合もあります。(時折見られる幸運なケースでは、その成功を誰かに話したときに、それを肯定するような研究論文の存在を指摘してもらうような場合です。まれですが、あります。)
そんなことをおもうと、「経験則は間違う」と言い切ることは、たぶん論述の仕方として間違いであり、アカデミア的な表現をするならばこういうべきです。
「経験則による法則性の導出には、大きく分けて、Aのタイプ、Bのタイプ、Cのタイプがあり、Aのタイプの導出の確からしさは統計論的にいえば、15%の信憑性であり、Bの場合は36%、Cの場合は71%です。ABCのケースの存在割合は、7:2:1ですので、加重平均した場合、経験則による法則性の導出が確からしい確立は、0.15*0.7+0.36*0.2+0.71*0.1=0.248、つまり、25%です。」
これぐらいいって、はじめて「経験則で話す人の話は信憑性が無い」といえるのだろうとおもいます。(※数値はすべて仮想のものです)
もちろん、論文を書くという行為を経験してわかるのですが、論述の前段ではいくつかの仮説やもっともらしい事実に依拠して研究のテーマやアプローチ方法を説明します。普遍的なところからはいじめて、研究を展開する、その地点たどりつくまでが「研究の意義」で語られ、その地点の中での冒険(研究=調査、分析、結論)がくわしく語られます。なので、その冒険の正当化の部分においては、必ずしも、すべて数値データを持ってそこにフォーカスを絞れる場合ばかりではないのも事実です。その地点へのフォーカスに必要な全ての論述の裏とりがなされているものは非常に、優秀な作品(論文)ですが、それでも反対意見側の論文も大抵は存在するので、「そういう立場をとる」として展開されるものではあります。そしてたいていの場合は、裏とりがなされていない「もっともらしいと社会通念上思われている仮設」がさらりと組み込まれていることに気が付きます。時折それは、”自分の論理展開は隙が無い”と表現する人の説明にも見られます。私はそういう仮説の積み上げの中に含む「社会通念的に正しいと思われていること」と「その議論の精度にたるもっともらしさを有する仮説」であるのかを、聞き分けるようにしています。のポイントから先がどんなに緻密でも、ある程度、慎重に見ていかないといけないと思います。相手は大抵嫌がりますので、あまりそれをフィードバックすることはありませんが。
大分本題からずれました。もどります。
「経験則は間違う」といって、経験則にもとづく展開を完全に否定してしまうことは、ときどき間違います。そういうものの中にもあるもの。あるいは、そういうものの中にしか現れないもの。そういうものが人々の営む社会には沢山ある。そのことを、思考の際に、含みとして持つことも、大事だなぁ、と私は思うのでした。