完成はスランプの母。だとすれば・・・
完成してしまった後、多くの活かさなかったアイデアが、ファイルに突っ込まれてしまいます。次にアイデアの活かせる場面が仮にあったとしても、「過去すでに取り上げ却下した(製品の最終仕様に使われなかった)アイデアなので、これは劣る」と、思い込み、よく検討もせずにそのアイデアを無意識に見向きをしないままにしてしまいます。
今、ある事情で必要があって、ここ5年の写真ファイルを開いてみていましたが、意外と過去の試作品の写真の中に、新しい開発ネタがあることに気が付つきました。 当時生かせなかったアイデア、いまの段階なら、結構つかえるな、いいねこの切り口、などと内心感じている自分に気が付きました。
その時に、同時に、こうも思いました。
「完成というのはある意味、成長の扉を閉める事である。 」
人は、沢山の仕事をして、完成させて、そのたびに、具現化したアイデアと死蔵したアイデアがありますが、死蔵したアイデアは結構広い「面積」を持ちます。仕事をするにつれその面積がどんどん広くなり、まだまだ作れるはずなのに、あれもだめこれもだめ、とやる前から、その辺はすでに検討済み、としてしまいます。次第に、スランプ、というフェーズに入ることもあります。
スランプからの脱却法の1つに、過去の自分のやり方をつぶさにローディング(掘り起こして記憶に呼び出す)する、という方法がありますが、これは、「過去の自分が気が付いていたアイデアや試作品から、まだまだ余地がある」ということを発見する、ということでもあると思います(作る仕事の場合)。
完成をみるほどに、人は踊る場所が少なくなっていってしまう・・・ように感じるものだけれど、それは認知上の特性が引き起こす”間違い”であろうと思います。
この起こりがちな間違いを格言っぽくいうならば、「完成はスランプの母」、というのが妥当でしょうか。
そしてこれには処方箋を与える下の句が必要です。「最終製品に乗らなかった大量のアイデアを掘り起こし、広大な未踏エリアを再発見せよ」、と。
人生には、行ったつもりになっている未踏の場所が結構ある。ということでしょうかね。