創造は闇が深い。せめて明るい所は考える道具を。
「創造というものにはいまだに明らかになっていない部分が多い。全部に徒手空拳で臨むより、分かっているところはさっさと進み、人間の能力の深いところを使うしかない問題に潤沢に時間を投入する、というスタイルのほうが実利的である。」
いま、とあるサイトの連載にむけて執筆しています。その中の一文です。流れには大勢のない文章ですが、この点は、創造工学の研究をする石井の思想を表現しています。そして、ブレストの補助道具を作るツール作家としての私の思想を。
ただ、実利と、創造の闇の尊重、いわば、テクニックとアートの両面があって、僕は、アーティスティックな創造の領域についても、敬意を持って見つめています。ワークショップでもその辺の姿勢はかなり出ると思うのですが、「ならって再現できることと、やっぱり、そういう有象無象もあいまいに踏み倒しながら、その人にしかできないやり方を、その人の闇の奥から掴み取ってもらいたい」というメッセージをいつも含んでいます。
私は「そんな発想の仕方じゃだめだ」なんていうことは、今まで一回もなかったし、これまでも、あり得ないでしょう。そういうことを言えるとしたらそれは、創造に関して非常に明るい所だけを入口の所から見た人が、その視界の範囲ですべて知った気になれている段階なんですが、そういう人が一生そうは言い続けないことも知っています。創造の領域に入ると、手前のエリアに続くおくには、非常に奥の深いもりが、ある。
そういうものなんですね。
発想のメカニズムに入った人が奥の深い森に入ると何もいえないと感じて、それからは、メソッドを語ること自体も、難しく感じることもあるのも事実です。
私はその、「明るい所」と「薄暗がり」の両方を行ったり来たり。時には知財の人たちと。時には漫画家や芸術家の人たちと。
それぞれの語る「創造」はまるで別物で、同じ日に両方の議論をするときは、自分でも器用だなとおもうぐらい違う話をします。どっちも、僕は、リスペクトされるものだと、おもって、興味深く観察し、その中で求められることに最善を提供しようと、しています。
創造的努力の、日々です。
そして、記事のまた少しあとで、こうも述べています。
「創造的努力に具体的な手段を与えてみると、人間は心理的惰性を乗り越えやすくなる。手法というのはアイデア発想という領域においては、必ずしも型どおり、手順どおりに使わなくてもよい。本質は「創造的努力に具体的な手段を与える」ことにある。」
と。
リベラルさのポーズではなく、本当にこの通りだと、私は思います。