物事への心構え、2つのスタイル
最近までの長い間、心のありようがシンとしていました。武道で言えば、「静」。ものやことが表現していること、発するシグナル、人や社会の微妙な機微、そんなことに、心をしずめて耳を傾けている、そんな感じ、とでも言うべきでしょうか。
私の長い人生では、それは久々の経験だったと思います。小学生のころは、(これでも)文学少年で一日に本を何冊も読む子供でした。そのころはそういう「行間にあるモノを感じる心の繊細さ」をもっていた気がしますが、それ以降は、割とラジカルな日々を送ることになります。競争社会で競争を楽しんでいるふしさえあったかもしれません。
30代の前半をすぎて、デザインやアート、という私のこれまでの思考フレームワークで捕らえられないものを取り込む経験がありました。それは私の好きな創造やアイデア、が橋となり、私の中に、広がった世界です。そこでは、私は自然体であるがままを感じてみよう、と思いました。出張先で、夜に、国立美術館の国宝を見たり、絵画カードを購入してみたり、デザインについての価値感を素直に自分の中で感じ取っていく時間をすごしました。
そこの中では私は、創作というものに向き合うために、自分の内省的な部分にも、つよく意識を持って、いました。
ここに来て有る出来事があって、ぱっとその状態が切り替わりました。従来の心構え、武道で言えば「動」に近いもの、でしょうか。
この「静」と「動」の2つのスタイル(物事への心構え)を簡単に簡単に絵にして見ました。

AとBで大きく違うのは、エネルギー状態です。Aは最少のエネルギーで、静。しかし、必要なエネルギー(生命活動や、他とのコミュニケーション、ある種のアウトプット)のラインを時々は作る必要がある。なので、時々、パルスのように上がる。
このスタイルではエネルギーは少なくてすみます。しかし、難しいのは、単発のパルスを短い時間で立ち上げることです。時には必要なレベルに達せられないことも。
Bは、エネルギーを使って生きること。いわば、動。必要なエネルギーをずっと上回っているので、課題やイベント(出来事)は当然余裕でクリアします。エネルギー不足でしくじることは無い。波があったとしても、レベルを超えた領域であれば、失敗はありません。
このスタイルではエネルギーが非常に要ります。積算するとAよりはるかに多くのエネルギーを必要とします。
このAとB、どちらが、いい、というわけではないと思います。両方ありだし、局面ごとにそれを使い分けるくらいでいいとおもいます。力の抜きどころが必要。というのも、昔水球をしていてよく経験しました。常に動き続け続けると、ダッシュのスタミナが温存できなくなります。
なので、AとBをいったりきたり、がいいんでしょうね。ただ、最初の異なるスタイルの経験時期には、そちらにどっぷり身を浸すことが本質理解に必要だと思います。
イメージにしたら、右にあるモノが、大きく左にふれて、そして左も充分体験したら、左右をうまくあわせて使っていく。そんな感じであると思います。
私は、先日、Aである自分を感じました。感じたのはBのスタイルに戻るきっかけがあったからです。
興味深い発見としては、もどってみて初めて、BじゃなくてAのスタイルであることにきがついた、ということです。これは、Aになるぞ、と意識したわけじゃないので、自然とそうなっていった、それを自分ではあまり意識していなかった、ということですね。
物事への心構えには、こういう2つのスタイルがあるのだと思いました。多分、別の視点でそういうことはこれからも経験があるのだと思います。そのときに、今回のことをよく思い出したいと思います。きっと、このB→A→Bの経験は、Aになっている自分、を認識するのに役に立つでしょう。