未来に明るいものがあると想起させること

娘たちが育てたプチトマトが絶妙なグラデーションになっていました。自然が作り出した美しい瞬間だなぁとおもいます。
それはさておき、経済のお話です。
景気の見通しは、私はこう見ています。
政府による資金投入による回復の気配が見られる日本経済は、その政策の尽きる2010年半ばで、浮揚力をうしない、それまでに回復ムードの見られなかった多くの産業分野では、経済構造の破壊が起こるでしょう。その未来像は気がめいるような姿をしているとおもいます。
しかし、明るい材料としては、日本は人口減少社会ですが、世界的には数十年のスパンで、人口が増えます。日本の経済の力が規模で勝負はできなくなる一方で、北欧型の「濃い」経済力が芽生えるでしょう。そうなれない産業分野は存続しにくくなる。危機感が変革のトリガーであるというのは、日本の経済の歴史に見られるパターンです。安心して、ということはできませんが、かなりの確率で日本人の知性は、産業と技術を変革することで、新しい経済構造に適応するとおもいます。ただ、その過程は、破壊が頻繁に起こり社会に深刻なムードを蔓延させる、とは思います。
そんな中で、どういう活路をみいだすか。
どんなに経済がシュリンクしても決して、消えてなくなるわけじゃありません。一億人以上の人口がいて、毎日ご飯を食べます。一定の水準の生活をするので、人がいるだけで消費していくわけで、一国の人口としてはかなり多いこの国のなかで、経済活動が消えてなくなる、ということは決してない。ただ、「じゃあ、食産業だね」というすとんとした考え方では、どうも不十分そうです。
社会的非効率がなおされた時に、動労のあり方がかわり、その中で生まれてくる新しい産業や事業のあり方にヒントがありそうです。
生産人口(15-65歳)を生産力としていると、社会が保てません。かといって、体力面でむりもできないし、確実な価値提供のあり方を強いることもできない。しかし、そういう層がなおももつ、知的な能力や労働資源があります。グリッドコンピューターのように、あいている時間で空いている時に、その分の演算力で貢献するし、貢献できない時間帯は、おちてしまってかまわない。全体として大きな演算力を持つ、そういうグリッドのような社会的な価値提供の仕方が、日本の社会にめばえてきて、「今日は今から2時間、労働するか」ということが許されるような、社会になると思います。その時には、今のビジネスシーンとは非常に違う様子が見えると思います。
もちろん、メーカのように、一定規模を超えて生産することで、良質なものをリーズブルにできる部分も必要です。その意味では、きっと「大企業」というものもなくならないはずです。
ただし、ロボットによる単純作業~複雑作業が、作業を行い、人間はより「考える」部分や「感性で紡ぎ出す」部分に、労働力を絞りこんでいくのだろうと思います。
コンテンツ産業としての日本の力をみると、とても高いといわれていますが、それはある部分事実だと思います。アニメーションの制作やその感性価値的な資質は、非常に大きいですし。
考える、とか、感性で(たとえば、なにかエモーショナルな部分に訴える)ストーリーとかセリフとか絵とか造形とか、という部分を、出勤しないで、自宅で空いた時間に、人々が知的資源で貢献する・できるようなそういう労働の仕組みができたらたとえば、働きには出れない人が、あいた時間でその分の生産活動をする、という形でしょうか。
総体としては、生産人口の減る中で、生産に資する資源提供の量は増えるもしくは、現状維持、というぐらいのことが起こるのではないかと思っています。
たとえば、本当に未成熟なアイデアですが、あいている時間に、ふと思いついたメロディーをiPhoneのようなコミュニケーション端末に吹き込み、それを「労働サーバ」にアップする。それが感性的にすてきな旋律を含んでいれば、知の対価がくる。
労働サーバは、それを編集する役割の人や、聞いて「素敵!」と判断する役割の人を常時募集していて、あいた時間にログインして、感性的な判断をする、という行為を、そこにログインした100人などがすることで、次々と、音楽が社会からうまれていく、その音楽は、日本のコンテンツ産業が次々と、感性価値的な部分を生み出す際の素材となる。
もちろん、それだけじゃ全人口の食いぶちは稼げないので、そういう「非フルコミット」な働き方を、大量にうけとって、何か知性上のアウトプットをする構造が、様々に必要でしょう。
いまの産業構造の道の上には、直視すると、気がめいるような姿が見えるわけですが、それとは違うエリアが生まれてきて、それはそれで、縮小しつつも、人々がくらすようになるだけの産業をきづいていくのでしょう。
それから、たぶん、核家族化の非効率性が、社会的に限界に達していき、次第に、最適サイズのコミュニティー家族モデルがうまれてくるんだとおもいます。
大きめの家の中に、パブリックスペースと、プライベートスペースがあって、夕食はそのパブリックでたべて、食材の大量購入や家事の順番性による効率の向上(2人分の食事をつくるより8人分作る方が、材料やガス代も安い)や、たとえば子供の面倒をみてもらうのに、高い預かり所にお願いする代わりに、同居人に突発の場合は面倒をみてもらう(それは、それで、換金できない価値通過としてやりとり)ということが、収集の少なくなった社会でも、生活を一定水準に保つスタイルなのではないかと。
多分、1~3人というサイズは、効率が悪く、また30人とか50人という人数は、管理コストが発生して、管理のための非生産的なものがでますので、その中間である6,7人~12人、多くても20人以下の人数集団が最適なのではないかと思います。
また、血縁者間の確執が懸念されるならば、「契約」で、コミュニティーになるタイプの家族もあるかもしれません。かなりの紳士さを必要とするタイプの構成になるでしょうけれど、一定の成果はあるかもしれません。
この社会の未来にも生活はきっと成り立つおもうんです。
未来に明るいものがあると想起させること、それが大人の使命であり、学生や子供たちにその姿勢と考える材料を提供していくことが、重要ではないかと、考えています。
(このエントリーは一切の書き直しなしに書いてみました。まとまらないし、裏付けもないような仮説も多い考えですが、そういうものでも発信することには、一定の価値があると考えて、えいっとかいてみました)