葉を、森を見て、混沌にいたり、2巡目へ
ふと、考えていました。
何かについて知ることを、葉っぱの一枚、とみるならば
その木にはっぱが、10枚、100枚とついてゆくことで
木の大まかな枝ぶり(構造)をしることができます。
それとは他のことを知ることは、別の木の葉っぱの一枚、と
みなすと、人の何かを学ぶというのは、複数の木に、
ひらいていく葉っぱをみるようなもの。
しかし、そのうちに情報がふえて、木もふえていくと、
葉っぱはみえなくなり、森としての様相をみるにいたります。
風になびくひとつのあつまりがとる挙動などがみえます。
それがさらに進むと、上空から、地帯をみたものが目に入ります。
もりの風のざわめきはみえなくなり、
長い時間をかけて変化するようなものが変化として見えていき、
すべての情報は、カオスの海の中にゆっくりと沈んで、
ゼロのなかにたどりつくのだと、おもいました。
人は何かについて、達観するプロセスで、
そういう視点移動をするようにおもいます。(未成熟な仮説です。)
その中で、また、ひとつの木に寄り添い、
はっぱのひらくのを感じる距離で、一つ一つの事象と
つきあうようになります。
そういう二巡目の人は、一巡目の人と
同じ場所にいて、同じ活動をしていても
どこか余裕が感じられます。
人間はなんども、なんども、情報爆発のあとの認知飽和から
原点回帰の初心にもどる、という心理をくりかえしているのだろう、
とおもいます。
生物や宇宙にはフラクタル、という構造があるので
2巡目というのは、ある種のフラクタル構造のひとつ上のレイヤーを
いきているに等しいのかもしれません。
ある種の達観のプロセスには、認知飽和を過ぎたあたりで、ゼロインフォメーション期がきたり、精神的な不遜さが、うまれたりして、人は寂しい場所にたどり着くようになっているのではないか、とおもいます。だから、二巡目をはじめるのだ、と。
お風呂に入り、ツイッターという道具が、徐々に自分にとって、情報爆発を起こして行く過程を、メタ認識しているうちに、ふと、そんな人の一般的な変遷を、そうきしたのでした。