考える静かさのある空間を。
最近思います。行き過ぎた利便性は、不便である。と。
ノスタルジーに帰結するほどの極端さはないものの、利便性の向上は、時に生産性を低くする。人間の欲求をむき出しに刺激できる強い作用は時に害である。とある行動パターンを見て思いました。
過剰に摂取か享受が可能な場合は、中毒、とか、依存、で表現される状態になることもあります。
人によっては、過剰に利用すると飽きる。そのことで、過剰性が沈静することもあります。しかし、人によっては飽きるが遠くにあるので、十分に悪い状態になる、という場合もあります。
鋭利な道具にしろ、ビジネスにしろ、食品にしろ、使う人間しだいです。
その人間の愚かしさというものを、もうすこしきちんと考えてあげないと、人間は難しいところに迷い込んでしまう。元物理学を志した身においては、兵器の使用と科学者の苦悩を若い頃に哲学として問いかけられてます。その思いは、今の社会において、便利になったことに時に、自分の行動にすら、警鐘をならしています。
だから、人間は、考える静かさのある空間を、どんなに便利なの世の中になっても、持つようにするべきだと思うのです。
最近、このブログの大幅なスリムダウンを行ったのは、ここが考える静かさのある空間であり続けたい、と思ったからです。紡ぎ出すには、思考の広がり、その遠い静寂に耳を澄ます。そういうところが必要だと思うのです。右横に、ツイッターのツイートがくるくると、めぐり続けるのはどうも違う、と。カウンターが目に見えるところにあるのは、誰のため、何のため。
そういうことを、最近考えていました。
なお、ここで極端に考えると「人は正しくいき、隠遁せよ」という思想になりがちですが、そうではないと思います。
とおりの賑わい、半パブリックな作業場、静かな奥。このような構造が、物理的にも、精神的にも、豊かさをもたらすのだと思います。(ちなみに、静かな奥、という言葉は、パタンランゲージの中に出てくる一つの概念です。)
PCは静かな奥、であろうか?
PCは時にとおりの賑わい。時に、半パブリックな作業場、時に静かな奥。でなければなりません。それを意識して環境を作ろうと思います。