幸せを入れる容器として、人生、をみる
人間の幸せのサイズというのは私はちょうど、胃袋みたいな形と大きさをしているのだと、常々思います。すこし、その所を一人語りしてみます。
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まず、言いたいことを、先にざっくり述べると、こうです。
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たとえ天下を取っても、、、という言葉として「立って半畳、寝て一畳、天下とっても二合半」というのがあります。
外挿して考えてみると、どんなにおなか一杯、世界の美味な料理を食べたとしても、胃袋がいっぱいになるまで精々100万円もつかえるかどうか。
仮に三食を食べて、長生きして100年間だとして、これらをかけると、
1,000,000*3*365*100
=109,500,000,000
つまり、1千億円。
住む家だって世界中の一等地や別荘地に家をもっていたって、毎日泊まり歩いても精々365件もあれば、一年に一泊できるかどうか。これが上限。
むしろ毎日移動するだけで忙しいなんてつまらないのでもっと少なくていいでしょう。
10億の家が300軒あったとして、3千億円。
それから、高額医療と言っても1千億円ぐらいと仮定する。
こうしてみると、一人の人間が自分のためだけに使えるお金は、生涯で5千億円。
人間の意識は広大な空間に住んで無限という概念を扱うこともできますが、身体をもちいた享楽には、有限の、それもかなり低い所に、限界があります。
荒っぽい計算ですが、5千億円、です。
幸せの器は、5千億円でうちどめ。
それ以上はあふれて容器に入らない。
しかし、もし、その人が、他者を愛するならば、話が少し違ってきます。
たとえば、一人の他者。愛する子供。子供をもっていて、その子が幸せいっぱいになるとき、脳はとても強い幸福を感じます。その相手が、2人、3人、5人、7人、、、とおおくなっていければ、それだけたくさんの幸せを感じることができます。もちろん、容器が広がると、その分、それを満たすための努力は大変になりますが、上限は上がります。
自分用の容器は「胃袋」の形。でも、拡張できる容器は「人型」みたいなもので、そこにも、注いでいくことができる。なので、伴侶、家族、友人、もっともっと、広がって、お客さん、地域の隣人、まだ見ぬ同時代の人々、未来の子孫。。そういうところまで、人を愛することができれば、幸せの器は、満たしきれないほどの容積を持ちます。
自分ひとりしか愛せなかったときに比べて、ずっとずっとたくさんの幸せを享受しながら生きることができます。
私は、よく、思うのです。
人生、というのは、本質的こういう「容器」なんだろう、と。
人の分まで人生を生きることはできない。しかし、人の容器も共有して自分の幸せの器に変えることはできる。
だから、人を愛そう。他人を愛そう。自分を愛そう。お客さんを愛そう。地域の人たちを愛そう。2030年ごろのまだ生まれていない人々も、愛想。
そう思うのです。
もちろん、人間は複雑なので他者を憎んだり拒むことも、マイクロ感情としてはあります。
あまりに忙しい時、心が枯れてエネルギーがない時、満員電車でえらい体勢になっている時、とかとか、、。
でも、それでも、人間はずっと同じ感情にはとどまりません。今日みたいな久々に書斎でじっくりと制作の仕事にとりかかり、家族で一緒に一緒に食事がとれるようなときには、いつも、志しの原点に返ってきます。
そういう時には、いつも、思います。
「他者を愛そう」
「顧客への圧倒的な愛が製品のフォルムに宿る。そういう仕事をし続けよう」
「なにより、いつも自分が幸せであるように努めよう。」
と。
利他主義というのは、滅私、じゃないと、私は思います。
利他主義というのは、「みんな幸せ。その中で自分もしっかり幸せに生きる。」ということだと。
そういう風に生きるほうが、世界狂乱の中で一人だけシェルターにこもって衣食住の幸せをいきるよりも、何倍も、ご飯は美味しい、心も未来も暖かい、から。
幸せを入れる器は胃袋の形。でも増設は可能。人型の容器をいくつもつなげて、いっぱい価値を作りとどけたり、いっぱい稼いでみんなでおなか一杯幸せです、という形にできたら、人間はとても大きな幸せを享受できる。
そんな風に思います。
(どこか宗教的なセリフですね、とよく言われますが、自分自身には何か特定の宗派や宗教を選択したり(否定したりも)しません。自分が信じる「律するための心の中の長き階段」その総体を私は、いつもことばにしています。それが、人からそういう風に見えるのかもしれません。)