器用でないから、デザインし努力する
今日は内面的な、日記的なものを記します。
私は自分の全体的な能力は平凡なものだと思います。
人よりすこし得意な事、没頭できる好きな事、は、あります。だた、その力をいつでもどんな時でも即時活用できるわけでもなく、あまり器用ではないなと思います。他の人なら気にせず我慢できることでも、上手く対応できないことがあります。例えば、自分以外の人間の話声がする場所でしゃべることです。幾重にも重なりざわめきの中へと一個一個が解けているようなものはいいのですが、静かな空間に二組の客がいて、一方が私たちで、一方が他の人だと、その方々の会話が続いている間は、とても話しにくく、すこし聞き取りにくくなります。脳の特徴がそうなんだろうと思います。
そういう脳の特徴を、若いビジネスマンだったころは、なんとか努力して頑張ろうとしていました。ある程度はクリアできたのですが、苦手なままでした。でも、それはとても疲れました。高い集中力を必要とするので、若いころは努力しているとよく眠たくもなりました。
今は少し努力の仕方が違います。
自分の能力にはでっぱりとへっこみがあります。均(なら)せば平凡な力でしかないと自覚しているのですが、へっこんでいる所は、裏返すと、ある場合におけるでっぱりにもなります。それがたぶん、連想や想像力という名称で呼ばれるものだと思います。そして、創造的イマジネーションの方法を、論理的にも創造工学の知見から知ることでいつも、プラス側に想像力を回転させることをするため、クリエイティビティ―の領域で、ある種の事業をできているのだと思います。
ちなみに、イマジネーションの大家であったオズボーンの考え方をベースに考えると、イマジネーションの力の強い人は、その回転方向が正方向であるか、逆方向であるかで、また、発露する思考の様態が違うだろうと思われます。回転数の早い想像エンジンの乗っている人は、正方向に回っている時には創造的な産物を生み出しますが、負方向にスイッチしてしまうと、とことん落ち込みます。暗い想像の先に立って更に暗く考えます。一般的になイマジネーションを裸の力として持っているだけだと、なにかのタイミングでスイッチが切り替わってしまう不安定さにさいなまされたりしています。これが大きい人ほど、そうである、ように見えます。
幸いなことに、私の場合は、創造工学の範疇にあたるもののなかには心理様式のこともかなりありさまざまな文献を読む機会があります。一つだけ書くならば、、プレイズファーストという原始的で根源的な概念を明示的にメンタルアティテュード(心構え)として持っていることで、このスイッチをいつも正側にしてこともできます。
創造的な思考が上手く回り始めないときには、心をガイドレールに乗せてその方向に引っ張っていくために何をすればいいのか、というのも、普段講演で伝える側なので、自分自身にそれを適用してみることができるので、意図的に創造的思考の状態に持っていくこともできます。(ある程度は、ですが。)
今私がしている努力は、昔の努力と違います。
自分の能力を知り、その能力が最も社会の役に立つのはどういう差し込み方だろうか、ということを、充分に調べ、仮説を立てて実践し、具体的にモノやサービスとして展開して、その軌道修正の中で、自分の努力や能力が、効果的に社会に役立つような形をしって、それに沿って努力をしています。
私はこれを、器用でないから、出来たのだと思います。
器用でないから、努力する。いろいろ試す。
そして、それだけじゃなく、努力が正しく生きるように、生き方、能力の活かし方、働き方をデザインする。
そして、そのうえで、努力をもっとする。
そういうプロセスだと思います。
短くいうならば、
器用でないから、デザインし努力する。
と。
私の隣接的な領域で仕事をしている人たちの活躍を見て、彼らの展開はすごいなあと思うところもありますが、自分がうまく能力を発揮できる場所を作り、そのうえで一生懸命やって社会に価値を提供してゆこう、といつも、地道に、志した道を愚直に歩いています。
私は自分自身は、職人のようなものだと思います。細い道を極めていく人であり、マルチタレントなところは、望めないなと。
もちろん、必要があれば、いろんな展開をするのは、ビジネス思考上、構想し、実現を試みるのですが、自分が苦手なことは人にお願いして自分はいつも、細い道を行こうとおもいます。多分、その方が、社会の付加価値の総量は多くなるでしょうから。
登壇する仕事、製品開発の仕事、メディアで何かを書く仕事、というのをしていると、他の人から華々しくみられている事もありますが、基本的には、そういう自分の特性の活かし方を知って、愚直な邁進、努力の日々です。
今日は、昨日、歯の神経を抜いたのもあり、一日書斎にこもり、ずっと、作る仕事をしていました。