幸せを享受できる器の大きさはどれくらい?
日記的なことを、書こうと思います。
目の前にいる人を本気で愛し、その人を幸せする。
それが、人生で享受できる幸せの総量をあげる唯一の方法、
なのではないか、と思うのです。
むかし、夫婦で風邪をひいて高熱が出た時に、
なんとか起き上がって、娘たちにご飯を買ってきて、
こどもがおなかいっぱいおいしそうに食べるのを見て、
自分がおなかいっぱいで幸せとおもう経験がありました。
人間はどんなに贅を尽くしても、
一生涯でたべられる食物の総量には
あまりかわりがないでしょう。
せいぜい2倍がいいところでは。
服や、住む家だってそうです。
頻繁に着替えたところで、1体しかない自分の体で
そでを通せる衣服の数なんてたかがしています。
365×80着。一日に3回きがえたって、その3倍。
住む家だって、どんなに広くて、あちこちにあっても
結局起きて、過ごして、寝て、につような面積なんて
そんなに変わりません。
どんなに、享受しようとしても、
50~70キロ、150~180センチの一個体で、
物理的に60~80年間で享受できるものは、
限界があります。
もちろん、物理的じゃないものがあります。
知識とか、社会関係性とか、評判とか。
それは、人によって、上限値がかなり違うかもしれません。
そこについては、以下の考えにプラスαがまだあるかもしれない、
ということは、含みをして置き、
以下では「物質的なもので、幸せを享受できる器のサイズ」
ということを、考えてみます。
その器は、ひと1人分は、経済的な差があってもあまりかわりありません。しかし、本気で愛する家族が一人いる人は、二個分の器だけ、幸せを享受できます。本気で愛する家族が三人いれば、四個分の器だけ、幸せを享受できます。
もし、家族という属性を超えて、100人の人を本気で愛することができたなら、そしてその人たちをおなかいっぱい幸せにできることができたら、その人は101個の器分だけ、幸せを享受できます。これは、大きいですね。
どんなに、贅沢なことができる金持ちよりも、死ぬまでに享受できる幸せは、きっと多いでしょう。
これは、どこまでおおきくなれるのか。
1万人を本気で愛することができれば、1万個分
(厳密には1万1個ですが、細かいので略します)。
1億人を愛せるならば、1億個。
66億人を愛せるならば、66億個。
その分だけ、幸せを享受できる器が大きくなります。
可能性の話をするとすれば、世界中の人を愛することができた偉人のような人は、普通の人が享受する幸せの数10億倍の幸せを享受できたのかもしれません。
私はそこまではできないかもしれませんが、ぐっと小さな範囲で、「私の目の前に来た人を、本気で愛して、その人が幸せに生きられるように、最善のものを提供しよう」と思っています。
講演のような、1対200の席でもそうです。緊張しないわけはないのですが、会場に来て下さった方を始まる前に見まわして、ここにいる人たちを本気で愛そう、そして、私にできる最大のものをお渡ししよう、と腹をきめて、覚悟とか気迫のようなもののスイッチが入ります。
実際は、私はまだまだ力不足であり、相手のニーズをすべて満たすなんて全然及びません。ほんのちょっとだけ、なにかの知識やハウツーをお渡しするにすぎません。願わくば、情熱もすこしだけ。
「儲かりたい、できるだけ楽して何かしたい」という考えでいる場合よりは、1個分の器を超えた量の、幸せを享受できている気がします。
私は、いつも、なぜか「残された時間が、あまり、無い」という気もしていて、いつも「この仕事が最後の仕事である覚悟」でクライアントや「クライアントのお客さん」に、意識を向けて、覚悟を持って準備・実施します。そんな、大げさな、と思われているのかもしれませんが(笑)。
でも本気です。丹田に力をこめて、覚悟を持って働き、目の前にいる人を本気で愛して少しでも、「アイデア創出の技術」や「創造技法の体験」を提供していきたいと、おもうのでした。
年おいたある日、余命が長くないと分かった時に、選択する生き方が、その前の日までと全く一緒。そういう日々を積み重ねていきたい。大きな器で、いっぱい、しあわせを享受した生涯だったと、いいたいですから。そう思うと休日の夜も、ゆっくり寝ていられずに、おきて何かごそごそをやっていたりすることも多いです。