36歳にして、語彙が1つ増えた「蓋然的」
学習をすれど、新しい言葉を「語彙」として吸収することはあまりないことにきがつきました。大抵は、既存の概念・単語の再結合で、(自分にとって)新しい概念が、表現されていることがあまりに多いからです。
しかし、出会いました。
「蓋然的」という言葉に。
”ガイゼンテキ”とよびます。ガイゼンテキ、と打ち込めば、PCはこの用に変換してくれますが、使い手である私は今日までこの単語をしりませんでした。
「蓋(ふた)」という言葉から、蓋然とは、「ふたっぽいさま?」と推測したのですが、どうもしっくりきません。
文脈上「必然的か、蓋然的か」とあるので、必然的と同格的な概念であるとしたら、ふたっぽい、はあまりにあり得ない。
そこで、いろいろしらべてみて、なるほどー、これは、知っておくべき言葉だったと思いました。
蓋然的(がいぜんてき):
ある事柄が起こりうると考えられるさま。ある程度確かであるさま。
(出典デジタル大辞泉)
比較対象とされる単語は、必然的。必然的、が、確実にそうだ、というものであるのに対して、蓋然的、は「ある程度確かであると思われる」ということを意味する。
その2つの比較の軸の上に、もうひとつ「偶然的」をならべると、こうかな、とおもいました。
例:買い物に出た彼女が、タイ焼きを買ってきたのは「必然的」である。
(タイ焼きを買いに行ってもらったならば、こうなる)。
例:買い物に出た彼女が、タイ焼きを買ってきたのは「蓋然的」である。
(外出すると、甘いもの、特に、タイ焼きをよく買ってくる彼女が、買い物に出たら、タイ焼きを買ってくるのはある程度予測できるようなこと、という場合、蓋然的、が当てはまる。多分。)
例:買い物が出た彼女が、タイ焼きを買ってきたのは「偶然的」である。
(偶然的、という表現が入るのはやや違和感。偶然、が入るべきだけれど、そこは、ひとまず置いておき、彼女は甘いものをめったに買ってこないならば、何かのアクシデントや幸運という予期せぬことがあって、彼女の手の中にタイ焼きがやってきた、という状況になる)。
なお、蓋然的、ということばをグーグルで検索すると、梅田望夫さんのブログがでます。
ルービンの蓋然的思考(Probabilistic thinking)
その中の引用を(私がここでさらに)引用しますと
「人生とは絶対とか証明できる確実性などがない世界で、いろいろな確率を秤にかけるプロセスということだ。」
と展開されていくその内容、リスクテイクの道を行く人がもつべき強く潔いメンタリティーがあるなぁと、おもって、この本を読んでみたくなったりしました。梅田さんの文章は、知的であり、情熱をよく伝熱する”銅”のような文章。
文章が脱線をし続けましたが、さらに感じたことを。
「必然」か、「偶然」か、はたまた、ある程度の確からしさ「蓋然」か。
ルービン氏の言葉にある考えに私は賛同的です。現実の社会や環境で完璧な「必然」はない、と。
理論物理学をしていた修士時代にわかったことの一つに「物理法則も、多くの実験において否定される事実がなかった関係性が、法則的なものとして、論じられて、十分な確からしさが、検証されて、法則になるのだ」ということです。ただ、検証されても、それは、たとえば、地球の重力の1億倍とか、いやもっとかもしれませんが、地球上の実験室では実現できていない環境下では、その法則性は確かめることが(今は)できないわけで、高度なもっともらしさをもったそれが、「法則」というものの正体だと。
蓋然、という言葉一つに、自分が持っていた思考の枝葉がいくつもからみついて、これは語彙として、自分の言語体系にキャッチされたのだ、という感じがありまして、ちょっと書いてみました。
ちなみに、こういう文脈にあると、もっともしっくりいくのだ、と読書を再開して思いました。引用します。
「…蓋然的な帰納的推論は…」
(出典『アブダクション 仮説と発見の理論』P4)
蛇足:
ちなみに、よく目にしていて、いまさらながらに、読み方を確認した言葉「誤謬(ごびゅう)」があったこともメモしておきます。(意味:論証の過程に論理的または形式的な明らかな瑕疵があり、その論証が全体として妥当でないこと:出典wikipedia)
(それから、可謬性、という言葉もありました。可謬性=fallibility。いかなる知識も誤まっている可能性があること、のようです。)
(謬(びゅう)は、誤り、という意味だそうです。なんとなく”りゅう”と読んでしまいそうな、字面をしていますね。)