言葉の泉が枯れている日もまたよし
日々、文章を書く仕事をしていると、どうもかけない日が来ることにあせりを感じます。
沸いてこない、そういう日があんまり来ない人でも、ずっと書き続ければ、確実にやってくるでしょう。人間の発想の構造と、物事への認知の特性からいえば、「インプットがたくさんないと発想は限定的になる」のと「人間が一つのことに対してもっている概念の分解能は40~50ぐらい」というのが、ベースにあります。(と私は考えています。石井仮説)。
そういう日は、見たこと、感じたこと、ききとった誰かの言葉にみいだすもの、がもっているかすかな輪郭に眼を凝らし、言葉としてつむぎだすのもまたよい、とおもいます。
絵が描ければ絵でもいいし、音楽が作れれば音楽でも。あるいは陶芸でも。
出し尽くしてもうでない、言葉の泉が枯れた日、というのは、発想と認知の特性から言えば、創造性のおいしいゾーンに入ったというシグナルでもあります。
ここで終わりにしては、折角のおいしいゾーンをつかわないので、出そうと努力を続けます。ここからは速度が下がりますが、ふくまれる質はとても高くなります。
理屈はさておき、、、
泉の枯れた日にも、なにか道草みたいな文章をかいてみる。
そういうのって、いいのかもしれません。