目先を変えないといけないとき、変えてはいけないもの
ふと思ったのですが、連続して誠ブログのようなものを書いていると、「目先を変えないと、読者が飽きる」時が有るとおもうのです、それは大体40~50本を書いた時点で到達する「ある種のあがるための踊り場」なんだろうと。
人間には「認知飽和」とよばれるものがある、とある知識科学の先生が言います。私はその概念を繰り返し、自分の中で検証してみているのですが、それは「1つのテーマで何かを発想・展開すると40~50ぐらいで、不可避に起こる」ように思えます。
記事も、多分、そうなんだろう、と。
同時に、人は忘れます。短期記憶は20秒で。長期はかなり長いですが、ゆくりと。
なので、山手線のような議論の仕方がいるのかな、とおもいます。
書き手としては、50どころか200ぐらい伝えたい。でも、受け取り手は40が見えてきた時点で、もう認知飽和、それ以上、個別の違いとして判読できない。だから、はいらなくなる。
なので、30ぐらいまできたら、次の話題へ。そこも30ぐらいで次の話題へ。そうすると、いつも新鮮。そして、駅の数を最低で7よりよりも多く経由して、元の場所で、また積み上げる、そういう、概念の提供方法がいいのではないか、と思うのです。
ふと思ったことでした。