映画『魔女の宅急便』が好きです。なんども見たい物語。
久々に日記的なものを書きます。
映画「魔女の宅急便」を娘たちとみました。学生時代からこの作品が大好きで、テレビで放映される度に見ています。
この場所って、どこなんだろう。若いころに見たナポリの景色と似ているようにも思うけれど、ちょっと違うようだし。
そう思って今回は、調べてみました。
http://www.ghibli.jp/40qa/000026.html#more
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E5%A5%B3%E3%81%AE%E5%AE%85%E6%80%A5%E4%BE%BF_(%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%82%AA%E3%82%B8%E3%83%96%E3%83%AA%E4%BD%9C%E5%93%81)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC
舞台の町並みとなった(所の1つ)は、Visby(スウェーデン ゴトランド島)という街だそうです。
いつか、そんなところに、鞄1つでいって、何かを作りながら2か月ぐらい暮らしてみたい。そう思いました。
・・・
さて、以下は、長くまとまりのない、日記的な部分です。感想であり、作品性についての自分の興味方向からの気付きであり、そんなことを書きます。
■世界
この物語は、新しい世界で、ゼロからいろんなことを始めていく「スタートの街」。そこでの日々が描かれています。
主人公キキが、知らない街で感じた最初の気持ち、それはワクワクであり、雑踏での戸惑いであり。少しずつ増えていくその土地での関係性。
それから、何度も見ていますが、毎回思うのは、「こんなところに住んでみたい」という気持ちでした。
街並みがきれいで、こんな海の見える丘陵地帯に、石畳の街、適度な街のにぎわい、美味しそうなパン屋、階段を上がったところにある屋根裏部屋っぽい部屋。
いつかこんなところへ旅をして、2か月ぐらい部屋を借り、住みながら、何かを作って過ごしてみたい。見るたびにそう思っていました。
(今年の8つの目標に、北欧、とくにスウェーデンを訪れて、創造性の専門家に会いたい。というものがありました。大震災があってこの計画は見送りか、と思っています。改めて計画するならば、ゆっくり日程をとって、Visbyにも滞在したいと思いました。)
その世界、本当にあったらいいのに!と思わせること。
これは、主人公のその街への感じ方、窓を開けるシーン、走り抜ける時の人々の表情、空に上がった時の街の全景、多くの物がリアルにそこにそれがあるかのように感じられるほどに、整合性をもって魅力的に描かれていることに依拠するのでしょうかね。
リアリティ、物語の世界に誘い込む、心地よい世界。そんなことを思います。昔はそういう部分はまったく気が付きませんでしたが、作品を作る、ということを仕事にする人たちと付き合うようになってみて思うのはそういう部分でした。
「作品名」「舞台」で検索を思わずしてしまう。その行為を人に促す作品というのは、すごく世界観がリアルで魅力的であることの1つの条件かもしれません。
■出来事
また、物語が、生きている、感覚。
人工的に作られてしまったものが時折見せてしまう奥行きの浅さがない。13歳の女の子の無垢な明るさもあるし、嫌いな女の子にイライラしてところもあるし、街の全景や配置図が説明的に出てくるわけでもないのに、作品の中でキキが飛び回る世界が、リアルな街の中で起こっているように、自然さwpもっています。何度も登場する場所もあって、徐々にその街になじみの場所ができていきます。
物語に、納得感や説得性というものがあるとしたら、それは、なんだろう。最近ずっと思っていました。
作者側の恣意による作りものっぽさ。それは、物語に都合の良いように言動を行う登場人物、都合の良いように起こる出来事。そういうレベルをはるかに超えていて、時折自然に起こってしまう事件や、進みたいのに起こるごく自然な悩みも物語の中に存在する。
そのうえで、それが日々の描写に終始するのではない。大きくメッセージの方向へと束ねられていく。重層的に物語が進んでいくことなのかもしれない、と思います。
■ぞくぞく
キキにとって「(森のお姉さん的に言う)いずれ描きたくなる時が来る」が、事件の発生で思いかけずやって来る。難しい条件で発露する、潜在する力。それを引き出そうとして真剣な瞬間に、ぐっとひきつけられます。スランプからの危機的事象に叩かれての脱出。見る人毎に勇気を与えるシーンだと思います。特に、創る人に、かな。あるいは、乗り越えようとしている人に。
作る人にとってぞくそくする「自分の中の壁ごえ」の瞬間。
そんなことを見ていて思いました。
■親としての眼でも見始めた
蛇足ですが、7歳4歳の娘とともに見て、親の側の描写が初めてはっきり意識できました。
お父さんがキャンプ用品を借りてきたり、13歳の子供を高い高いして、いつの間にこんなに大きくなったんだと言ったり、たぶん故郷の街の木にぶつかりを知るための鈴をつけてくれていたり、最後の方で手紙が来てそれを大興奮でもってくるお父さんだったり。
その意味では、私がまだ目がないだけで、孫を持つような世代になった時、この作品は、もしかして私にまた違うものを見せてくれるのかもしれません。人は自分の視点を持っている範囲でしか、“物語の行間”を見ることはできませんから。
■蛇足 (というか、全部蛇足ですが)
文章で書くと、感覚的に想ったことは、ひどく伝えにくい。
わかりやすくまとめ、箇条書きにするのは推敲すればできる事ですが、本当においしい香りを感じた時に人に唾をごくり飲み込ませるのは、そういう「分かりやすさ」とは違った部分にあるのではないかと、最近は思います。
「曖昧」で「全体的」なものに強く興味を持っています。作品の香りや、物語が人の深い記憶に刻まれていく時、それは、決して、箇条書きではないし、シンプルで明確なスモールステップのプロセスではない。心の中で警鐘がずっとなっています。そこにもっと目を凝らしてみてみたいと、近頃思っています。