未だ存在しない未来の顧客に誠実であれ
この数年、ときどきある種の物事、それは擦り減る、という表現に近い物事に出会います。
それはあまり良いとは言えない体験ですが、人間の多様性が織りなす社会の中では、やはり時々起るもので、かつ、それを呼び込むのは偶然もあるけれど、自分の生き様が導く結果なのかもしれない。そう思います。
他者を愛そう。
そう強く思うのですが、やはりどうしても、それでは越えられないこともあり、まだまだ未熟だなぁと己の狭量さを残念に思います。
しかし、そういう経験を何度かしてわかったのは、不誠実な人生の時間の使い方、というものがあるなぁということです。
そのある種の擦り減りにも、幾度かの打ち合わせや企画的な思考の十数時間を投入するわけですが、その時間にバッティングした他の依頼はお受けできないわけで、そこにもあったはずの、社会への価値提供の機会も、失っています。
また、その時間が他の依頼と干渉しなかった場合でも、有限の時間の中で製品を構想し打ち合わせ形にして世の中に届けていく仕事(これが、私の規定する本業、アイデアプラントの代表としてのより中心的な使命)なのですが、それを行うための20時間ぐらいを失います。
その製品があれば、変わったかもしれない数年後のまだ見ぬ誰か、は、実際のところ、多分いるでしょう。
あるいは、その時間で何かを学んでまた一つ何かを身に着けておけば、私が未来のある時に求められて何らかの創造支援に入った時に打ち手が一つ増えてより質の高い創造支援の展開ができたでしょう。
これは、「いまだ存在しない未来の顧客に不誠実な、時間の使い方だ」と私は、アイデアプラントという生き方において、思うのです。
だから、ある種の依頼においては、最初の10分で、「恐縮ながら、お望みのことに答えるだけの十分な能力がなく、お受けできません」と、謙虚に、かつ、きっぱりとお断りしりしたほうがよいのだろう、と思いました。
それは、その瞬間においては気まずいでしょう。しかし、生涯の時間は有限でその間に、創り出せる所産というのどんなに多くてもその量で上限になります。それを少しでも増やすことを通じて、社会への価値提供を最大化する。それが、生涯を通算しての社会への誠実さではないだろうか。
今夜はそんな風に思っていました。
(ただ、そういうからには、自分のものづくりへのストイックさと、覚悟はやはり必要です。それを携えて、いけるところまで、私は、私なりの道を、一歩でも遠くまで進んでいきたい。そう、強く、思うのです。)