『よみがえるおっぱい 義肢装具士・中村俊郎の挑戦』
アマゾンでは新品が手に入らない本をようやくセブンアンドワイで入手しました。
千葉望さんの書かれた『よみがえるおっぱい 義肢装具士・中村俊郎の挑戦』という本です。2000年に海拓社から出ています。
本を開いて表紙の裏を見るとこう一言。
この本は、きわめて真摯に会社を経営し、社会に本当に喜ばれるようなものをつくる企業「中村ブレイス」を取材し経営者の意志を十分につむぎだした、とてもよい本です。
本の内容を紹介したいのですが、その前に、なぜ、この本、中村ブレイスのことを書いた本を、そこまでして手に入れたか、をちょっと書きたいと思います。
2005年8月。
当時、東北大学の博士課程でMOT(技術経営)の研究をしていた私は、広くベンチャー企業に関する文献をあたっていました。ハイテクベンチャーをどのように成功させるか、といった視点で要因を抽出するための作業を、朝から晩まで、まさに「研究」していた時期です。
そのときに、一冊の経営学所のあるページに目が留まりました。
そのときの素直な感想を、当時のブログに書いています。
非常に感銘を受けた一文(2005年8月)
なんと、驚いたことに、偶然にも、同じ日の二年前。
当時、文献調査で昼食も適当にしか食べていなかったので、午後三時ごろ、パンか何かを買ってきて研究室で食べながら、さらに文献を読んでいたところ、その本のその文章に出合いました。
私はしばし、食べるのもやめて、全力疾走のようなスピードで文献を読みすすめていたのも中断して、しばしその文章の意味するものに、深く深く感じ入っていたのでした。三回も同じ文章を繰り返し読みました。
2006年2月。
そのときから半年たって、このブログに改めて当時のことを書きました。
非常に感銘を受けた一文(2006年2月)
ハイテクスタートアップ(ハイテクベンチャー)ばかりがベンチャーではない、という価値観の広がりがこの半年間に私の中に育ったのでした。そして、ブログにはもう少し先に書かれていますが、私はこのころ、NEDOフェローへの応募を決意しています。地域企業の事業化支援の仕事に従事しよう、と意を固めます。商社を辞めて大学院に戻った当初は、急成長するハイテクベンチャーの創り方、成功のさせ方、に強い興味を持っていて、地域でがんばる小規模だけれどきらりと光るような中小企業さんに、あまり目を配っていませんでした。大学院にもどった当時の価値観は、シリコンバレーの再現、といったところでした。しかし、この中村ブレイスという企業の事例に出会った時点から私の価値観が変わります。ご本人にいまだお会いしたことがありませんが、この事例との出会いは相当大きかった。
そんな経緯で、2006年の4月からNEDOフェローとして、仙台地域のベンチャー・中小企業の新事業展開をサポートする仕事を、私の仕事だと決意して、朝から晩まで取り組んでいます。
さて、前置きが長くなりましたが、この本「よみがえるおっぱい 義肢装具士・中村俊郎の挑戦」をようやく手に入れました。宮城県図書館に蔵書があるとのことで随分待っていたのですが、行方不明のようで、ようやく、ネットで手に入れたのでした。
この本を手にしてから、忙しい仕事の合間に、この本を読むのが楽しみで、細切れ時間を使って、読んでいました。中に出てくる写真が「メディカルアート」というレベルの本当に良く出来た義手でした。鼻も指も乳房もあります。これが本当につくりものなのか、とおもうくらい良く出来ています。本人の皮膚間をよく調べて、肌の色、質感を再現しています。指にはえる毛も一本一本植えていくそうです。先天的にあるいは後天的に身体の一部を失うことがどういうことなのか、そしてそれを補うとはどういうことを提供するものなのか、深く深く、感じ入りながら読みました。思わず、ため息が出ます。周りの人に「ほら、これみてよ」と私が普段しないような行動も。それほど、この本には、中村ブレイスの仕事と、社長である中村俊郎氏の「意志・思想」というべきものが詰まっています。
以下に、目次部分を紹介します。
はじめに
第1章 あたらしいおっぱいをありがとう
山の工房に先端技術があった
ビビファイでもう一度女性に戻れる
メディカルアートが行き直す力を与える
使う人の視点が生む快適義足
クオリティ・オブ・ライフをめざす義肢装具
この痛みは他人には分からないと思っていた
世界のスポーツマンが愛用するサポーター
第2章 モンゴルの少年との出会い
両足を失ったツォグトオチルに義足を
即断即決で義足を提供
物心両面から支えるスタッフ
中村ブレイスのおかあさん・仁美夫人
ツォゴーとスタッフの努力の結晶
児童文学作品になったツォゴー
新しい希望を日本に託して
遊牧民から義肢装具士をめざして
夢を抱いて再び大森へ
大統領夫人のアルヒ
第3章 石見銀山から世界へ
ハイテクの伝統、大森にあり
かつて人口二〇万人、今五〇〇人の町
子を信じる父が教えてくれたこと
苦学の青春時代に育まれた自信
片道分の渡航費をもってアメリカへ
第二の故郷アメリカから大森へ
貧乏留学生を支えた二人の日本人
交通事故で一度は霊安室に
あこがれのナタリー・ウッドと対面
過疎化する故郷で創業した理由
第一号社員は当社拒否症?
大森の紅梅が結んだ妻との縁
「世界に通用する製品づくり宣言」を実現
ふるさと再生への道
石見銀山の隆盛をもう一度
なかむらスカラシップのこころみ
古い建物が再生する大森へ
介護より看護の充実が目標
マイペースは背番号3譲り?
義肢装具にほれて 中村俊郎
あとがき
私は、この中村ブレイスのことを2005年まで知らなかったのですが、TVや紙面でも良く取り上げられている有名な企業さんなんですね。最近でも、元気なモノ作り中小企業300社に選ばれています。
この会社は、使う側にして見れば「この会社があってくれて、本当によかった!」という会社でしょう。ある日、事故や病気で腕や顔の一部が欠損したら、相当な心身の負担です。仮に、生命に支障が無いほど回復しても、「社会性を生きる人間」という動物としては・・・。
私は思うのですが、
そういってくれる人が、世界中にいる。
そんな事業を創り出すことは、起業家の重要な役割の一つではないか、と強く思います。
私の周りでも、もっと規模は小さいですが、そういうことに取り組む起業家たちがいます。その事業の収益性という意味では、一人一品の繊細な対応というのは、往々にしてコスト高であり、収益性の意味では、相当な知恵と情熱が必要とされます。そうした事業は、収益第一主義の言葉には、太刀打ちしにくいものです。投資家、ビジネスコンサルタントがきて「それは効率が悪い、急速な成長性を望めない」と切り捨てていけば、悩むことも多いでしょう。しかし、忘れてはならないのは、長期的に堅実な事業であること、です。「この会社があって本当によかった」という事業は、好況でもずば抜けて伸びることが無い代わりに、不況でも、売上が激減する、ということもありません。無くちゃ困るものは、不況でも、無くちゃ困るもの、ですから。
市場感応度の低い事業と、不況に強い事業というのは、表裏一体です。小規模事業者が世界中に通用するモノづくりに挑む、売っていく、ということになれば、激しく市場の動向の波を受ける事業では、短期に成功しても長期的には難しい。これからの社会で、小規模企業がITも駆使して、世界中に出て行くならば、そうした「市場感応度は低く、不況に強い事業」を意図して構築するべきかもしれません。瞬間的に吹いた風にあおられて巨額の在庫をもってしまう、なんていうのは、小規模事業者には、致命傷ですから。堅実にチャレンジすることが、長生きの秘訣、だと思います。そして企業というのは、その価値を求めてくれる人々のためにも、簡単につぶしてはいけない、長く生き残るための知性を身につけなくてはいけない、と思います。
私は中村ブレイスのような、(ある種の業界では)世界中から尊敬される企業、をこの仙台から次々と輩出されるような地域にしたい、20年かけてそういう面白い土地にしたいと、本気で思っています。覚悟、気概、人への愛情、情熱、創造性。それが全面に出てばかりではうまくないかもしれませんが、そういうものを内に秘め、これまでも、これからも、進んでいきたい。