2007年最大の出会い。中村俊郎さん(中村ブレイス訪問記2)
2007年の秋、中村ブレイスを訪問するために島根まで行きました。その朝は気持ちのいい快晴。仙台は寒い時期でしたが島根はまだ秋。コートも要らないくらいの気温でした。
タクシーは大田市駅から大森に向かって走ります。途中、歴史ある建物がぽつぽつ見えてきます。運転手の方の話が道中、「ここも中村ブレイスの建物ですよ」と教えてくれました。後でそこに行って分かるのですが、そこは中村ブレイスのメディカルアート研究所。本当にその人の分身と思えるような義手をつくるところです。
そこから数分、街中に入ると直ぐに中村ブレイスはあります。古い歴史ある町並みにまっちした趣きある建物です。中に入ると上がったり下がったり、増築を重ねたであろう建物の全体像はかなり広いのですが、外から見るとそれほどの大きさには見えません。
歴史的な趣のある概観のためか、石見銀山の観光客の方が時折、同社を観光スポットだと思って入ってこられるようですが、分かる気がします。
タクシーが少し早くついてしまったのでしばらく建屋の前の駐車場で写真を撮ったりしてすごしました。そこには大きな石碑があります。後でしったのでですが、それは松本清張さんから同社に送られた言葉が刻まれているそうです。
「空想の翼で駈け現実の山野を征かん」
この言葉は、中村氏がもつある種の特徴を表現しているとおもいました。壮大な視野と夢があり、暖かなキモチ、情熱、緻密なモノづくり。
午前10時ちょっと前。中に入ると直ぐに応接室に通していただき、午前中から昼食の終わるまで、3時間あまり、中村俊郎さんにお話をじっくり伺いました。
私はWEB上の動画や写真で見た中村俊郎さんが目の前にいることで随分緊張しましたが、飾らない暖かな語り口に、直ぐに緊張をといてもらって、お話を真剣に聞いていました。途中でお茶やお饅頭をだしてくださる事務の女性の方にも、中村さんは丁寧に「ありがとう」とおっしゃりました。その姿を見て、”この人は本当に人が好きなんだなぁ”というのがよく分かりました。(同社の社員の多くの方も、そういっています。)
お聞きした貴重なお話。いくつも書きたいことがあるのですが、それは別の機会に譲ります。お話の後、同社の中にある工場を見学させてもらいました。一つ一つの職場を回り、働く方に声をかけていかれる様子をみて、こうした製品をキモチを込めてつくる職場を育てることの片鱗を見た気がしました。作業中のある方に声をかけて「ここの電気を替えたら明るくなりましたね。うん、随分明るくなって良くなった」と声をかけています。私は義肢装具には詳しくありませんが、そのものづくりをしている方々の眼差し、手の細かい動き、面取り作業の丁寧さ、熟練度は感じ取れました。
強い志によって進み、育った、同社には、暖かさとひたむきさがありました。
どうしてもお聞きしたかったことがあり、近くの食事どころで一緒に昼食を取りながらお伺いしました。
実は、その訪問をする日の朝、私は宿泊していたひなびた宿の小さな机に向かって、”これだけは、どうしても仙台に持ち帰りたいもの。”をカードに書き留めていました。何年もお会いしたい方だったので、山のように聞きたいことがあります、しかし、これだけは、どうしても、というものを「3つだけ」あげるとしたら、何だろう。とじっと考えてまとめたものです。
それは、20年というタイムスケールで、私が私の生き方を続けていく日々で、なんども記憶の中のこの方の後姿に聞きたくなること、だと思いました。そして次のようにまとめました。
1、ディレクション(ぶれない):
進み続ける方向を指し示し続けるものは何か?
2、困難を越える:
長く挑戦していれば必ず、壁、障害に出会う。
のりこえられてきたのは、何があったからか?
3、予測する:
事業、社会がどう変わるのか、変化にさらされるか、を、
どう予見している?
これらの質問に対して、中村さんは、どれも、まっすぐに正道で、明快な言葉で、お答えをいただきました。このメモを含めて、この日の訪問では取ったメモは40枚。この40枚のメモを私は、多分、長く長く、懐に入れてもっているだろうともいます。
「ディレクション(ぶれない)。進み続ける方向を指し示し続けるものは何ですか?」
「壮大な夢があり、それは終わることが無い。」と。そして、続けて「世界中の人に、よろこばれることをしないといけん。」とおっしゃいました。
その言葉の意図を深く、正確に知りたいとおもった私は続けてたずねます。
「その”人”とは、どういう人ですか。」
「ある種のものをかかえた人。そしてその人の家族。メディカルアートのようなものはその本人と家族も気持ちが明るくなるもの」”
「よろこばれること、とはどうことですか。」
「人がやれないニッチ産業。誰もが必要ではない。しかし深い想いがある。」
中村さんは、義肢装具の仕事に出会ったときに「ああ、これは一生のテーマをもらった。」とお感じになったそうです。
「困難を越える。長く挑戦していれば必ず、壁、障害に出会うとおもいます。のりこえられてきたのは、何があったからかですか?」
「一つずつやれば、必ず出来る。」中村さんは、まっすぐな眼差しで、はっきりと力強くおっしゃいました。その声には、わずかの迷いありません。それは紛れも無い事実なのだと私は感じました。続けておっしゃったのが、「3年5年でやろうとしない。10年20年かければ必ず出来る。」と。
この言葉は、それ以来、いつも胸の中にあります。
「予測する:事業、社会がどう変わるのか、変化にさらされるか、を、どう予見しているのですか?」
これについては”うまい方法やコツ”といったお答えはありませんでした。しいて言えば、”先天的な才能”に近いものがあるというのがお答えになったことに一番近いかも知れません。もう少し詳しく言うと、未来を考えることが好きだったそうです。それから幅広くいろんなことに興味を持っているともおっしゃいました。芸術、文化。いろんなこと。また、私がその他のお話で感じたのが、義足というのは、その人に10年単位で使われる道具です。その人がこの先の10年でどういうライフスタイルをするのか、社会は動変わっていくのか、その中で義足はどう対応するべきか、といった長い視野で考える必要があります。義足義手といった製品を創ることは常に繊細な未来予想が必要なので、経営感覚にはそれは自然と備わっているのかもしれない、とも思いました。
以上が、私がどうしても聞きたかったことへのお答えでした。この時の40枚のメモ。いつも大事に持っていて、それを開くと情景が鮮明によみがえります。気持ちよく晴れた秋の大森で、和風の食事どころで中村さんと一緒に食事をしながら、私は必死にメモを取っていたその情景が。長く私はこの日のことを思い出すだろうと思います。
ご多忙の中、忙しいそぶりを全く見せずに3時間ゆっくりとお話をしてくださいました。とても恐縮をしながらも、心から感謝し、ありがたくお時間を頂戴しました。
この後、一度同社を出て、中村さんのススメで石見銀山を見学しに2時間ほど山へ一人で行きました。(石見銀山の世界遺産の登録の巻き返しの影にも中村さんのご活躍がありました。しかしそれはまたの機会に譲ります。)夕方前に同社に戻ると、本社から車で数分のところにあるメディカルアート研究所に、奥様がご案内してくださるとのこと。私はさらに恐縮しながらも、是非お願いしますと、いって、見学に連れて行ってもらいます。
- 続く -