音楽は心を動かす
なぜそのリズムがうきうきするのか、そのメロディーをきくと力強くなれるのか、音楽というのは不思議ですね。
創造性のことについて関心を持って研究をしていますが、人の心や意識は不思議ですね。☆記憶をいかにして引き出してくるか、という点だけとっても、不思議なのは発想法ではなく、人の頭の構造が不思議なんだなぁと思います。
音楽を最近、よく聞くようになりました。しかも、プロの創ったものではなく、消費者が創る音楽、というべきでしょうか、もはや、消費者というべきカテゴリーが適切ですらない、とおもいますが。
彼らは、音楽を作ります。とてもプロは書かないような表現、言葉使いの歌詞で。しかし、リズムや音楽の出来は大変素晴らしいものがあります。私は普段そういうトーンのものを好んで聴くことがないのですが、ある記事(人々が利用し合う創作物、その展開力、および既存メディアのビジネスシステムがひずみはじめること、など)をきっかけにして、その音楽を聴くようになりました。
ニュースがプロの記者によって書かれているのに対し、ブログの一部では市民の目線で現場の香りが感じられるものが生まれています。音楽もプロが作ってプロが歌う、これまでに対し、市民が作って歌も乗せる、そういう構造が台頭しつつあります。
ブログとは何ぞや、という時代はとうに過ぎましたが、一市民が発信できることで、googlezonの未来(EPIC2014、EPIC2015)が近づいているのか、定かではありませんが、今までにはなかった選択肢が登場し多様化した価値観を小さな文章が受け止める構造になっているとおもいます。
音楽もそういう時代に入りつつあるのかもしれませんね。そして、今、音楽のもつ能力について、少し考えてみたいとおもいました。
音楽がたまらなく心をふるわせることができるのはなぜか。頭は音楽の何につよく反応しているのでしょうか。歌詞のあるなしも影響しています。なくても反応するし、あったほうがいい曲もあります。
たとえば、ビルエバンスのワルツフォーデビー。
「ピン・・・・・ポン・・・・ポン・・・・・ポン・ポン・・・・タラララララ、ララララ~」
でだしのたまらなくしっとりとした旋律は、静寂から激しい情念がじわじわっと噴き出していくような、たまらなくウイスキーが飲みたくなるような「心地よいめまい」が起こります。
たとえば、邦楽、尾崎豊のシェリー、あるいは、堀内孝雄の続・竹トンボ。
(旋律も素敵ですが)歌詞がたまらなくいい、その歌詞を聞くたびに、ビジョンが頭の中に映し出されるような、絵的な言葉。情念をつよく揺さぶるような言葉。そういったものがあります。
ポップなのりのりの音楽は娘たちも好きで聞きながら踊っています。歌詞はわからないようですが、メロディーでウキウキして、踊りたくなるそうです。
退屈な作業も音楽があると、楽しい時間に変わります。運動もあっという間に終わります。人間の意識が、「大変だ、退屈だ、きつい」という思考回路を回すことなくその時間が「音楽だ、楽しいな、体が動くよ」という思考で埋められていること、これの効能は大きいですね。
音楽には、一定の流れがあって、しかも、それが情報のインプットの大部分を占めている、というのも大きいかもしれません。普通の生活では音は、予測不可能な発生をします。ものが落ちる、相手が何かをする、話しが突然始まる。テレビの番組はぶつ切りでしょっちゅう変わる。その意味では瞬間を生きているわけです。音楽は、少し先に起こる音が予想できます。特に繰り返しの構造を持っている音楽は。ずっと変化し続ける音楽はありませんから、必ず「こう来て、こう」という期待を期待どおりにするりとすべりぬけていくような安心感があります。このことも大きい気がします。ずっと予想外のリズムが続くと人間は不快かもしれません。それでも二度目には予想のつく時間となるのかもしれませんが。
しかし、はじめて聴いた音楽に感動することもあります。圧倒的にうまいコンサートに行って初めて聴いた曲に、感動することもあります。それは、予想が云々ではなく、背中がぞくぞくとするような、強い「感じ」が耳や皮膚から入ってきます。これはなんなんでしょうね。
音楽というものをもっとよく知りたいと思うようになりました。そして自分でも音楽をいつか作ってみたい、とも最近思います。
心を動かすのは無理でも、ある種の発想や知的生産を高める「何か」を作れるのではないだろうか。ふとそんな事を思いつつ。