父として

先週の休日のことです。長女4歳、次女1歳の娘たちと近くの大きな公園に行った時、はぐれて一人で遊んでいた長女と合流すると、泣きじゃくっていました。なに、どうした?と聞くと大きい子にいじめられた模様。
遠慮しがちで他の子供に強くは言わない彼女は、もう帰る、となくばかり。下の子はまだ遊びたがっていたのでしばらく、静かな場所の石の上に座って彼女に「人は何のために遊ぶのか」「人は何のために幼稚園に行くのか」「人は何のために仕事をするのか」といったことを、父として価値観を話していました。
多くの人が「人は何のために生きているのか」がわからない。私も若いころ(10代~20代)は、わかりませんでした。ただ、私の父が私の幼いころになにかそうしたことを教えてくれていたことは覚えています。
私は長女が、しっかりお話ができて考えることができる思考力がついたこの頃、父として、彼女に「何のために人は生きるのか」を伝えることが、私の役目の一つだと考えていました。
”人は何のために生きているのか”
これには、複雑で難しい答えもあり、シンプルな答えもあり、答えなしという回答もあるでしょう。万人にとっての正解を見つけることができるのかは、わかりません。ただ私は私の子どもには、父として「私の考える”人は何のために生きているのか”」を伝える必要があると思いました。きっと彼女は大きくなったら忘れるでしょう。しかし、今日「何かを教えてもらった」ことはのこるかもしれません。そして彼女が再び独自に発見するものが、あれば、それでいい。そうおもいます。
ちなみに、私は娘にこう伝えました。
”人は幸せに日々を生きるために生きているんだよ”と。
難しい違いですが、実はこだわりがあります。
”幸せになる”ではなく”幸せに日々を生きるため”と表現します。
つまり”プロセス(そして、夢に至るための日々)”を大事であると思っています。「X」というものが得られたらその先ずっと幸せ、という「X」が存在するとは思っていません。あるのかもしれませんが、私にはわかりません。”手に入れる幸せ”は、静止物ではなく、進行形の姿にしかない、と考えています。
川、ににているとおもいます。川は常にそこにありますが、構成する水分子は常に流れて入れ替わります。池ではない、川に似ている。そう感じています。
ある瞬間に、その川を10メートルせき止めて「これが川だ」といってみてもそれは、川ではない。ただの水10トン。そういうことではないか、と。