仕掛けないことには、はじまらない。
いろんな世界を見ていると、毎日いろんな取り組みが出てくることに気がつきます。
そういう時、はじめは「またか、なんかできそうにないことを言い始める人が現れたワイ」と周囲は言います。現に周囲の人たちは、それまでにも多くの人が花火を打ち上げて道半ばにやめていくのを見ているわけです。
しかし、そうした人のなかから、一握りの人は、続けていって、「さすがにここまできたら認めざるを得ない」というレベルのところまで来る人もいます。
動くと人は非難をうける。比較的保守的なコミュニティーにいれば結構つらいようです。ですが、そういうもやもやの中もなんのその。そこをあきずに、やめずに、続けていけば、いずれ、周囲の反応は変わっていきます。
そんな彼らをみていておもうのは、みんな始めのころは無名のチャレンジャーであった。ということです。仕掛けていかないことには、その人の夢は夢のまま。
そんなにたいそうな話しばかりでもありません。小さくても、仕掛けていって熱心に仲間を集めて、大きな動きやメディアの社会欄に載るような人もいます。めんどうだな。いやな経験したらいやだな。それも確かに日々を楽しく生きるために必要な感覚ですが、そういう気持ちをぐっと抑えても、チャレンジに一石投じる。仕掛けていく。そういう行為の先には、もっと楽しいが、まっている。 昨年、私の知人友人の動きを見ていてそんなことが観察されました。
人間は新しさを求める生き物。それでいて変化は怖い。その中で、小さな段差を乗り越えて、動き始めた人が、非難の雲を突き抜けて、頭を表していく。頭角を現すということが繰り返し場を変え、時代を変えて観察されます。
仕事も、趣味も、家庭も、そう。
仕掛けないことには、はじまらない。
動かないことには、はじまらない。
そんな「雲、突き抜けた感」の人々をみて、
部分的に感じたことを整理してみました。
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(注:しかし、仕掛けるばかりが、人の生き方ではありません。それ以外にも、人の生き方、というのはたくさんのスタイルあります。そのひとつに「仕掛けてゆく」ということがある、というわけですね。)